ひかり
夫馬基彦    

 ここちよいあたたかさにくるまれめをとじた暗赤色とも無明ともつかぬせかいに、さきほどらいしたのほうから「ミヤコ、ミヤコ」と声がきこえてくる。
「ミヤコでは……ことは……ねえ、なにさま……」
「よし、ミヤコのひとでは……」
「いっぺー……ミヤコの……」
 かたられているないようはわからぬがそればかりよく耳につくミヤコは都ときこえ、そこへときおりかるく音たてるげたやはきもののひびき、なにやら荷車じみたぼっかてきなはずみ音、それにいみのききとれぬみやびな抑揚のひとのよび声までがまじったりするので、をとこはすっかりじぶんが往昔の都小路の一角あたりにでもいるようにおもえていた。
 アレとおもい頭をふってみるが時間もさだかでない。朝のようなきもするが夕べのようにもおもえ、居場所もとっさにはんだんがつかない。どうやら揺れはなさそうだから船のなかではあるまいが、どこの都なのかいっこうわからぬ。
 をとこはベッドのうえでゆっくり薄目をあけ、まわりの空気・光、窓ごしの外の気配をうかがってみた。
 空気も光もどことなく明るさと人のくらしのいとなみに慣れている。
 男は起きあがってあたりをながめ、自分がきのうの夕この島に上陸し、港からまっすぐの道をすこし歩き、右手に石段が二カ所ほどあるちょっと風情のある石畳道をみつけて折れ、まもなく一軒だけあった小さな宿にあがったことを思い出した。
 宿の名は「ポートホテル」。モルタルかひょっとしたらブロック造りの、いかにもどこぞアジアの南国にありそうなちょっと異国的でもある三階建の安宿だ。
 男はそこの三階の一室に案内され、一階の食堂で茶色の皮膚にふとい皺をきざんだ老婆の給仕で甘辛く濃い味の遅めの食事をとり、老爺のすすめる甕いりの強い酒を疲労の溶解剤のようにのみ、そして倒れそうになりながら「風呂、風呂」というと、今日はボイラーがどうとかいいながら導かれたのが明らかに老夫婦のにおいがムッと充ち充ちた家族用の風呂だった。そこで息をつめ白や灰色の老婆の抜毛にからまれつつともかくべたついた皮膚や頭だけは洗い流して、朦朧とした意識のままベッドに倒れ込んだのが何時くらいのことだったろうか。
 いずれにしろ時間はもう午ちかい。
 起きてボストンバッグから着替えをひっぱりだしていると、ドアがノックされ、開くと老爺が乾いた皮膚の顔を出し無表情にいった。
「上に風呂ば作りましたが。今度はいい湯です」
 上は屋上で風呂は天水の行水だった。男はとまどったが湯かげんはほどよく丸いゴムボートふうの湯舟は快適だった。男は満天下素裸になってそれにつかりつつ四囲をながめた。家並は大多数が一、二階どまりで古い赤瓦ぶきもあればコンクリートづくりもあった。瓦ぶきはどこも正方形や長方形の頂点から白い四辺にむけて対角線のように白い稜線がひかれ上に一匹陶器製の獣がおかれていた。ゆるい坂の先には濃いブルーの海が見え、上はすべてそれよりすこし白っぽい広い空だった。男はそれらをながめつつ裸身を湯におよがせ、まるで産湯にひたっている気分で天をあおぎ水音をたてた。
 午後、男は荷をもちバス駅へ行った。
 駅は市場横の白っぽい長方形の空地で、四月初旬とは思えぬ光度の強い陽ざしのもと甲虫みたいな形の旧式の錆びたバスが二台、ドアをあけたまま死んだように停っていた。それを見たころから男の意識も陽差しのせいか前夜来の酔いの名残かすこしぼんやりした。
 バスの一台に乗ると、鄙びた詰入りやセーラー服姿の中学生、それに大きな籠や段ボール箱をもった中年女性や老人など二十名ほどがものしずかに散らばり座っていた。中学生たちは陽やけしてかえって粉を吹いたごとき顔に目だけを生物的に光らせ、大人たちは一様に顔も衣服も区別がつかぬような茶色っぽい肌とくすんだ気配をもっていた。
 動き出したバスはすぐ町を出、海辺の集落や内陸の畑のなかを走った。畑は一面のさとうきびで人っ子ひとりなく、半ば枯れた薄茶色が果てしなくつづくなかときおり陽炎でも立つのか視界がゆらいで見えた。けれどバスはそんななかでもときおり停ってはポツリポツリと人を減らしていき、人は降り立つとすっとどこかに消えた。そうしてやがて畑の先の村々もつきて道が海につきあたったとき中は六人の中学生だけになっていた。
 道の先がそのまま小さな突堤になっており、男はそこから黒い小集団とともに船に乗った。潮がれた木造船の座席は十ほどしかなく、中学生の大半は前の甲板に立ったままだった。

 目的の島はすぐむこうに見えており、船は十分ほど重油の匂いと音をたてて着いた。
 こちらの船着き場には舗装もなく、上陸するとすぐ砂浜だった。風がわずかに吹くそこには杭が二本たち藤蔓製とおぼしき大籠が二個と木箱が二、三影をつくってうずくまり、向うの草むら脇には自転車が二台たおしてあった。
 中学生たちは二人がその自転車に乗ってあっというまに消え、あとはまったく声も出さぬまま黙々と鞄をさげて二すじの道に別れていった。男は船のなかあたりからさらに茫としてきた視線でそれを見送った。
 島は小さくシンとしていた。坂をすこしのぼるともう島のほぼ半分ほどが見え、反対側の海が見えた。小高い丘になっている中心部は濃緑の樹々がほとんど真っ黒に繁り、海は濃く、左手南側の浜は茶色の砂のうえに廃墟となった元漁業施設が屋根と柱だけを黒いシルエットのごとく浮ばせていた。
 丘の間の径を歩いてゆくとそこここに茶瓦に白ふちどり屋根の家が点在し、やがて坂をくだりきるとまばゆい真っ白な小入江だった。まるで隠されてでもいたみたいな純白な砂の上を澄んだ薄緑色の海水がゆるやかに満ち干きしつつ光っていた。弓形の入江のまわりには十軒ほどの家がならび、うち一軒がよろづやで一軒が何屋ともしれぬはがれかけた緑色ペンキの板をはった家だった。人の姿はまったくなく、光だけが充満しところどころ影がなにかの絵柄のようにコントラストあざやかにちらばる空間だった。
 男はよろづやの暗い戸口をくぐって、一人だけいた黒い老婆にたずねた。
「ウミ島はどっちの方でしょう?」
 すると腰のまがった老婆は驚いたようにじっと男をみつめてから答えた。
「ウミ島は北のかたですが、ですがもうぼつぼつ終りじゃなかろか」
 男が思わず焦りの声をあげると、老婆は戸口まで歩いて甲に青入れ墨をした皺だらけの手で北への道を指し示し、
「急ぎされ」
 といった。
 男は荷をそこに預け、入れ墨の模様は星だったかそれとも円だったかと考えながら急いで小走った。
 途中、北から戻ってくる島人たちのグループにいくつかすれちがった。かれらは皆ゴム長をはき両頬に手拭をたらした大きな麦藁帽子をかむり籠やヤスを携えていた。籠からは大きなさざえや赤や瑠璃の色鮮やかな魚たちがぎっしりのぞいていた。
 まもなく着いた島の北端の海は白く泡立っていた。島から二十メートルほどは一旦かなり深い青い海になるのだが、その先は白い泡立つ浅瀬が沖合はるかにむかって巨大な楕円状に広がっているのだった。泡の間からはまだところどころにサンゴ礁の先端が露出し、そこへ薄緑色の水があたっては白い泡となるのだった。
 それがウミ島だった。ふだんは海中に没しているのが年に一回だけ、大干潮のこの時期一、二日のみ水面上に現れるのだ。それがわずかに遅かったか、明らかに海水が次々とひたよってきて生れたばかりの島をふたたび海に帰そうとしているのだった。
 男は波打ちぎわにたって茫然とそれをながめた。小舟が何艘かそこらに係留され、その一艘からはおそらく最後の海あそび人とおぼしき手拭で覆面をした島人が二人、いっぱいの魚貝をさげて上陸するところだった。
「もう終りだで。午までが一番だったですが」
 覆面がほどけて黒い顔のなかから真っ白な歯が動いて伝えてくれることばを聞きながら、男はすこし高い所へ駆けあがって沖を見た。ウミ島の痕跡は何平方キロにもわたって紺碧の海のなかに広がり、白い泡をすこしづつしかしかなりのスピードでみるみる薄緑の水に溶かしていた。それはなかなか壮大で美しい光景でもあったが男は口を一文字にむすんで凝視し、自分はこの島を見るためにずいぶん以前から日程を調節し何十海里もの旅をしてきたのにと考えていた。男はおそらくこのウミ島の最高潮時に安宿で夢のうちにまどろみ屋上の天水で産湯につかっていたのだ。

 男はその晩、白い入江のふちに泊った。
 宿はあのよろづやの並びの緑ペンキの家で、そこが唯一の民宿だった。主人は五十歳くらいの肩幅広く胸板厚い頑丈な男だったが口がきけず、この日の海の幸のさしみをたっぷりと山盛りの白飯を供してくれたのちは、酒は外でと島で一軒だけあるという酒場を手真似で教えた。
 男はさほど行きたくはなかったが主人が熱心にすすめるので白い月光のもとゴム草履を借りて径をたどっていくと、島の中心部の黒い森のなかに緑色の灯りをポツンと点けたベニヤ小屋があり、戸口にマジックペンで「アリス」と書かれていた。
 中には三十前後の口紅の真っ赤な夏ワンピース姿の女がひとりとカウンターの椅子に二十代後半くらいのシャツをはだけたゴム草履姿の男の客が二人いて黙って男をみつめた。
 男は前夜よりだいぶ質の落ちる強いだけの酒をなめながら、この島ではじめて見かける若い大人の男女がどんな人物たちかを知りたかったが、かれらは時々よく分らぬ短いことばを符牒のように交わすだけで、ろくに喋らず笑いもしなかった。間が持たぬのでトイレへたつと、裏の囲いに半分割れた朝顔便器があり、ちょうど用足し中にこちらの男根が真っ正面に映るように小鏡がはめこんであったのでギョッとした。
 戻っても誰も何もいわないので男は勘定をはらって外へ出た。外はあいかわらず月光で明るく、黒い森と白い径、さらには径が曲るたび遠くの右や左で銀色に光る海のコントラストがここちよく、その中を草履の音をかすかにたてながら歩くくうち折から酒の酔いも効いていたのか行けども行けども宿に帰りつけなかった。
 見た場所へ二度三度、それも明らかにあの白入江にちがいない場にも二度ほど来ながらどうしても宿をさがせず、あきらめて浜辺にすわりこみやがてよこたわってすなにほおをつけなみうちぎわをながめていてふと気づいたら目の前が宿だった。
 
 
 翌日、男は朝のうちに渡しに乗って元の島へ戻った。宿の主人とよろづやの老婆にここらで一番精気のつよい場所はどこかと問うたら一様にカリマタと答えたからだ。島うちではないのかと聞くと、
 「島には人がへって、もう世話をする者もままならぬで」
 と老婆はいった。
 カリマタはあの船着き場からバスで二つめの停留所だった。そこには蔓や宿り木のからまった濃緑の古木が二本、門のごとくアーチ形をなしており、それをくぐって野道をいったん村なかに入り、さらに突っ切って村はずれの森と崖場に至ったあたりが中心点らしかった。
 男は大きなバッグをもったまま歩いた。村の家々はいずれも古いがていねいに手入れされまわりを濃い樹々にかこまれていた。とちゅう精米所ふうの建物前で唯一出会った人々に道を聞くと、居合わせた二、三人の村人中年男女が一斉に男を注視し、やがてひとりが皮切りとなって、「あそこへ入るとチンポコがひんまがるちゅうで、気をつけされ」
 そういって口々に笑うのだった。その笑いは朴訥そうでいてどこか目の奥で伺うようなところがあった。
 男は前夜の鏡に映った男根をいっしゅん想い浮べ調子を合せて笑いながら同時に緊張し、しばらく歩いてからうしろをふりかえって見ている者がいないかを確かめた。村人に制止されたり咎められたりしないかと恐れたのだ。
 だが、それ以降ひとの姿はまったくなく、やがて至ったそこは鬱蒼たる森の中だった。わざと入口をふさいであるような腐木をのりこえてすすむと猛烈な籔蚊の大群が襲ってきたが、タオルの覆面と軍手でふせいでさらに奥へ向うと黒い岩々とひときわ濃い濃緑の大木群に囲まれたまるで陽のささぬひんやりと冷気と厳粛感のただよう空間があり、男は足を踏み込むなり身がふるえた。
 ぴりぴりと肌をつきさすふるえに畏れを感じて足を停めると、耳になにごとかカリカリ、カリカリと不思議な音が聞えた。耳を澄ますとそれにつれ幽かに物をひきづるような音もする。
 男がさらに畏れつつ目を凝らすと、湿った黒い地表を一辺十センチ弱正方形の白いものがそこここでいくつも、いや目を据えて見るとあたり無数にツツッ、ツツッと前後あるいは左右にうごめいているのだった。あたり全体がいわば大きな洞のごとく暗いなかで真っ白なものが意味不明に動くうえ、カリカリという音もそこから生じてくるのである。
 不気味さに今度は文字どおり背筋を冷たくして凝視すると、やがてそれは紙であり、紙をひきづる生き物がおり、紙の上にはどうやら山形に盛られたなま米が載っていると知れた。
 生き物は人のこぶし大ほどもある毛の生えた大きな蟹らしく、米は村人たちの神への供物だった。暗闇の奥の岩には水が滴り、口を開けた割れ目の奥には黒い水がたまっており、そこがこの場の中心だった。音は蟹が米を噛んでいるのだった。了解した男がやっと安堵し、ためしに右足で地をドンと踏んでみると、蟹たちが一斉にまわりの木に駆けのぼったり岩の割れ目に走りこんだ。蟹は椰子蟹だった。
 男は割れ目の黒い水の前でしばらくうずくまり全身に霊気をあびてから、岩のうしろへまわった。なぜならそこには幅三十センチほどの径が崖上に向ってついており、点々と米を盛った白紙がつづいていたからだ。男はなにものかにいざなわれるように枝をはらい樹々をくぐりながら斜面をゆっくりのぼった。
 上へ出ると向う側は海だった。
 高さ十メートルほどの崖の直下から純白の砂浜が横一線に左右はてしなくつづき、そのむこうにはこの地上に初めてできたばかりのようなまるで無垢そのもののなぎさがみずにぬれ、うすみどりいろのすんだうみがとおあさのせにずっとつづいていた。そしてそのせにはさながらかいちゅうをわたるみちのごとく二れつのいわがおきあいはるかにまでまっすぐつらなり、そのさきちょうどまひがしのかたしょうめんにうすむらさきいろになだらかにやさしく左右相称にもりあがったしまがふわりとうかぶがごとくしずまっていた。
 それがカミ島だった。
 人々の言い伝えではその海の道をむこうの島から兄と妹がわたって来、そのふたりの子孫が島人たちになったというのだが、男は今ある無人の光景そのものを見ながら尾根にすわりこんだ。すると潅木や草までが身の丈より高く覆い、木の間がくれに緑色の海だけが見えて、それがいつしか昔見たアラビア海にかさなった。そうしてみつめているうちその海が波打ちぎわからすこし先のあたりでふいに横一線に高さ十メートルほどに持ち上り轟々たる巨大な瀧となった。
 それはインドの西海岸の小さな村だったが、海はほんとうに緑色だった。薄緑などというよりはるかに濃い緑にミルク色がまじった乳緑色だった。陽が強すぎ日中は海に出ることなぞとても出来なかったが、椰子林のあいだからも海は見えた。椰子林は広大で海から五百メートルほど離れた所でも下は砂地だった。そのなかに家々もあれば宿もあれば市場もあった。市場の脇の巨大ながじゅまるの木の根もとには黒石でできたリンガム(男根)像も突き立ち、白い三叉路の交点には二十年も巡礼行をつづけているという長髪の行者が裸で寝ていたりした。
 男は林のなかの椰子葺きの小屋で黄疸で一カ月ちかくひとり臥せっていた。死にちかいという傾眠症状がつづき目覚めてのちも視界はまるで陽炎のただなかのように揺らいでいた。ようやく歩けるようになったとき、男は秘密の場所へ行った。小川をひとつ越えた向うの椰子林のなかのそこだけひときわ椰子の木が密になった所で、ちょうど円形の中心部にすわるとエアポケットに入ったようだった。見上げると大きくまっすぐな椰子の幹が二、三十メートルほども伸びて実を垂らし、それらと繁った葉のあいだからポンと小さな青い空を見せていた。男はそれを見ていると自分がまるで井戸の底にいるみたいな不思議な静謐感と安らぎを得て好きだったが、ある日視線を転じ立上がって幹のあいだから海を見ると、水平線まで見える乳緑色の海面がとつぜんこのような白い瀧となって轟々と流れ落ちた。ハッと驚き目をしばたたいたが、瀧はいったん消えたもののすぐ復活し、やがてゆっくり沖へ沖へと去っていった。 それは以降数日間つづきある日ぱったり消えたが、今も気づくと目の前の瀧は消えていた。男は眼前の海と島をあらためて凝視した。それはきらきらと澄んで輝きアラビア海よりはるかにやさしく、まぎれもなく男がこれまで見たあらゆる光景のうちで最も美しいもののひとつだった。
 男は茫然と見とれ溜息をつき、そしてやがて地図をとりだしカミ島行きの船の線が海上に引かれているのを知ると、その船着き場へ向うことにした。
 
 船着き場は隣村にあり荷物をさげ歩いていくと遠かった。男は熱射で頭をぼんやりさせつつ歩きつづけた。
 船着き場に着いたとき、中年女性がひとり自転車に空籠をつんでおり、沖を見ると航跡をひきづった小さな船が点となって消えていくところだった。カミ島はその向うに今度はやや青みをおび横向きかげんにしずまっていた。
 船は夕方までもうないというので男は樹の下にすわって待った。午どきになると村で一軒のよろづやで菓子パンとアイスクリームを買って食べた。樹には濃い橙色の大きな花が咲きみだれ、海は時間の転移とともに青さをしだいに濃くし、海面のきらめきまでを厚手のガラスのようにした。午すぎ船は戻ってきたけれど客は誰もいず運転者もすぐどこかへ消え、やがて日が陰ったころ中学生が三人と大人が七、八人集まり船が出ることになったが、乗ろうとすると運転者に、
「どこへ泊まらさる?」
 と聞かれた。
「民宿へでも」
 答えると、
「それはなくなったですが。それに今晩はどこも旅人は泊めんです、親戚ばかりじゃで」
 という。なんでも明日は親戚中が集まって墓の前でうたげをするのだそうだ。見ると大人たちはみな酒や饅頭や花をたづさえている。
 男はけっきょく乗船できず、バスで昨日のミヤコの町へ帰った。


 翌日の午前、男が町を歩くと町はうたげだらけだった。町はずれの海岸線はもちろん町なかでもそこここにある大きな墓の前で人々は十人二十人と車座になり、花を供え馳走を盛り上げ酒を酌み交わしていた。弦楽器の音がリズミカルに地上一メートルあたりから次第に上へ横へと広がるとそれに合わせ唄も上り人も立って舞った。
 それを見ていると墓が一番楽しい場所であり人生の座敷のようにおもえた。男は半ば唖然としつつその光景を見てはおのれも浮かれて意味もなく何度も町じゅうを歩きまわり、やがて午すぎ港からまた船に乗った。
 船はさらに南へ行くかなり大型のものだった。エンジン音は規則正しくひびき船室には百席ほど椅子があったが客は一割くらいだった。海はややにごって青黒く、舷側にあたってはねかえる水は不透明で音も重く、昨日までの海とおなじとはとてもおもえぬほどだった。四囲には水平線まで見えるものは海水以外何ひとつなく、見つづけているとその水中にやがて鱶が現れた。鱶は二匹三匹としだいに数を増し擦傷のたくさんついた四角い顔に鋭い歯と小さな目を見せつつ、舷側にちかづいては反転した。その際ちらとこちらと目が合ったりするのだが、その目は無人格なのになにごとか感情はたしかにあった。それは生きていることそれ自体の感情とおもえた。
 夕方ついた先はこの界隈では一番大きな島だった。港からつづく町も商店や営業所が軒をつらね活気に満ちていた。おまけに町にはあのカミ島への船着き場脇に咲いていたとおなじ橙色の大きな花がいたるところに咲き、建物はしばしば明るいピンクや薄グリーンに彩られていたので、今まで以上にすっかり異国の町へ来たみたいだった。
 男は町を歩き、けっきょく一番活気のある港ちかくのネオンのある新しい宿へはいり、船員たちの酒場兼用でもあるらしいカウンター付きのにぎやかな食堂でゆっくり酒と食事をとり、それから苦労人らしい宿の中年夫婦にあることを尋ねた。
 翌朝、男は宿のおかみに案内されてその場所へ行った。
 そこはあまり人通りのない変哲もない洋品屋の二階で、通された座敷には奥に簡単な祭壇があり、その前でごく平凡なおかみさんふう中年女性が線香をたいてなにごとか低声に唱えつつ祈り、老婆と三十前後の女性がならんでそれを聞いていた。
 中年女性はやがて祈りを終えると向き直って老婆たちに祈りの結果を伝え、老婆たちはそれをいちいちうなづきながら聞いていたが、話は島ことばだったので男にはほとんど分らなかった。
 まもなく老婆たちがていねいに礼を言い言い帰り、男の番になると女性は顔を見るなりハッと眉をくもらせ溜息をついて、
「あんまりやりたくないが」
 といった。男が戸惑いつつ、でも遠くから来たので、それに今年満四十歳で前厄の年にあたるから、というと女性はでは簡単にねと答えて男の住所、出身地、氏名を聞き、「川田シンジ」と氏名を書かせた紙を線香の前に立てて前とおなじように祈りはじめた。線香の前左右にはあのカリマタで見たとおなじ正方形の白紙になま米が円錐状につまれたものが置かれていた。
 そうして太い線香が一本燃えつきたとき、女性は男を向いてもう一度溜息をつきつつ託宣を述べはじめた。
「あーあ、あんたは精高くていい人だが。どうしょうかねえ、やめた方がいいかねえ、でもあとでいいこともあるみたいだし、いってみるかねえ……。あんたは歴史なぞ勉強する人か何か作る人かねえ、机の前にすわって字ぃ書いたり何かしてるところが出て来るねえ。よく勉強するし一生懸命だが、つらいねえ。なかなかうまくいかんし、奥さんが亡くなったねえ、今年は息子さんも大変だったねえ、来年もまだ苦労がありそうだが、でもそのあとにはいいこともあるかもしれんねえ、花がだいぶ咲いて明るぅなってるねえ。その先はどうなるかよう見えんが。ああ、そうそうこれはあんたの子供時代かな、死んだ人がそばに立っとるねえ、お父さんかな。それにあんたも寝ていたみたいだが、これは今は大丈夫か。ああ、もう消えていくねえ、これまでだねえ」
 男は礼を言い謝礼をはらって表へ出た。歩きながら足がぎくしゃくし頭が茫としていた。託宣はとりようによるところもあったが九十パーセント正確だった。
 町がいかにも商業都市的に活気にみち見えるものがすべて日常的で俗っぽいのが不思議な気がした。男は訳もなく町のなかを歩きまわり、けっきょく港へ戻ってきた。
 見ると船着き場にしゃれた流線形の新しい船が停まり明るい汽笛を鳴らしていたので、男は行く先も確かめずそれに乗った。
 船はすぐ出航した。


 着いたのはトミ島という島だった。
 平たく小さな島で、島のまわりは白い浜と薄緑色の澄んだ水にかこまれていた。 小さな突堤に一番最後から降り立ち、あたりをぼんやり見まわしていると十八、九の少年がひとり同じようにぼんやり突堤の先から海原を見ていた。宿を尋ねると自分のバイト先が旅館だと答えたので男はそのまま少年についてそこへ向った。
 道はすべてサンゴ礁の白い粒子でできており、島じゅうの道が真っ白らしかった。それは歩くとサクサク音をたて、白い別世界へいざなってくれるようだった。
 家々はどれもそれらの白い道に長方形にかこまれ、古いサンゴ礁の石垣とあの橙色の花と樹でとりまかれていた。平屋造りの屋根は島じゅうが明るい赤瓦で、周囲は例によって白くふちどりされ上にちょっととぼけ顔の赤い獣が乗っていた。
 宿もそれらの一角にあり、道とおなじサンゴ礁の白い砂でできた真っ白な庭にすずしげな影がくっきりついていた。少年が声をかけると母屋ばかりか隣に建増しされた新しい棟からも明るい声をあげて女性が三人かけよってきた。二人は四十前後の大柄と小柄のひょっとしたら姉妹かともおもわせるがあまり似ていない健康そうな顔立ちの人で、もうひとりは身長百四十センチくらいの底抜けに明るい顔をした年齢不詳の、しかしたぶん三十前くらいの人だった。
 通された部屋は一〇二(いちまるに)番で、目の前に白い庭があり赤い花の樹の下に楕円形に影が伸びていた。客は母屋にもうひとりと別棟に若い人たちがいるらしかったが、みな海にでも出払っているのか寂としていた。
 部屋の中ほどにあぐらを組んですわりこみ庭の白さと赤い花、屋内の陰翳をぼんやりながめていると、たぶん姉さん株とおぼしき大柄なほうのスラックス姿の女性が縄文ふう雰囲気の湯呑一杯の茶を運んでくれ、「どうぞ」と勧めたあと控えめに島の名所やら砂の形のことなどを教えてくれた。
 それにしたがってサンダルばきで散歩に出た島はほんとうに平らかだった。島で一番標高の高いという地がわずか十メートルほどの丘であり、そこに登ると島の大半が見渡せ自分がまるでこの島に初めて降り立った創始者ででもあるかのごとくおもえた。島はまるくやさしく、緑と白砂におおわれ、赤い家々と花が落着いて点在し、そこここに豊かさと気高さを感じさせる見事なかたちの樹木が繁茂していた。樹木のなかにはがじゅまるや赤い花の木のほかに厚く円い葉がすべて双葉のように左右相称になっている木や萼が真っ赤な花みたいなはでやかな木もあった。
 海辺へ出ると浜はどこもほんとうに純白で美しく、水は近くは薄緑色、遠くはエメラルド色だった。ぬれた渚はきらきらと陽にきらめき生れ落ちたばかりの赤子の肌のようだった。そして浜のひとつにすわって砂を手ですくってみると、砂のひとつぶひとつぶが宿の女性がいったとおり星のような形をしていた。
 男はその砂をすくい、みぎわを裸足でふみ、白い道に行く先をゆだねきって何も考えず陶然と島内を歩いた。自分がどこからなぜここへ来たのかもうほとんど意識から消え去りかけていた。
 
 夕方ちかく宿の門前に戻ると、道路をへだてた向いの質素なみやげものショップで宿の妹さんらしきほうと皺の深いお婆さんが手作りの貝製首飾りやら笛や麦藁帽子を売っていた。人通りはめったにないのにふたりはせっせと飾りつけをなおし、人が通るとことにお婆さんのほうはまるで福笑いのお面のようにっこり笑いかけるのだった。
「おたくたちはきっとお母さんと娘でしょう」
 それで男がつい楽しくなってふたりに指をふりながらクイズでも当てるみたいにいうと、お婆さんが答えた。
「まあーあ、やっぱり分るですか。こんな歳になってもどっか似とるのでっしょうねえ。皺はまーだ似とらんおもいますが」
 それからふたりでコロコロ声を上げて笑った。
 部屋へ戻ってしばらく寝転がっていると、廊下をばたばた駆けてくる音がし、やがて明け放しだったドアから一番若い女性が顔をつきだしざま楽しげな大きな声でいった。
「話したんだってえ。あたしのことも聞いて。あたしは誰に似てるぅ?」
 男が目をみはって身をもたげると、彼女はさらに真剣に顔をさらすようにしてみせたが、その顔はひょっとしたら子供なのかともおもえるくらい天真爛漫なふぜいのうえ目が子犬かりすみたいでもあり、しかもやっぱり肌や髪は大人のようでもあって俄には誰に似ているとも思い浮ばない。
 すると彼女は待ちきれぬというようにいった。
「あたし、いとこなの」
「ああ、じゃ、あの妹(?)さんの?」
 そういえば似ている気もしたがさらに類似点をさがしていると、彼女がまた先をいった。
「お父さん同士が兄弟なの。だからあのお母さんは義理の伯母さんで、大きいほうの姉さんはいとこのお嫁さんだから、どちらも似てないの。分る?」
 男が頭をめぐらせていると、彼女はさらにいった。
「男はみな死んだの。お父さんたち二人も上のいとこも。みーんな海で」
「……」
「あたしは三年前テル島から来たの。あたしもう二十七だけど結婚できるかしら?」
 男はとつぜんの問いかけに目をしばたたいて答えられなかった。そしてしばらくたってやっといった。
「できるとも、もちろんできるよ。今に白馬の騎士が海の向うから飛んでくるよ」 すると彼女はパッと顔全体をかがやかせ「ワアー」と声を上げ、
「ほんと−、ほんと−。あの、あたしトーキョーへも行けるかしら?」
 と聞いた。
「行ける行ける、必ず行ける」
「そう、あたしお金もためてるの」
 それから彼女はハミングしながらまた廊下をばたばた走っていった。
 食堂での夕食はお姉さんが中心になって作ったものを妹と彼女が運んでくれた。風呂は夕食前にお母さんが沸かしてくれた。酒は土中にうずめてあった三年もので、口に入れるなり口中がふわりとまろやかになり、やがて喉をしたたって体じゅうを柔らかにした。
 
 翌日からの男の生活は彼自身がいつか遠い昔に夢として想い描いていたそれのようだった。
 男は毎日気ままなときに外に出、気ままに歩いた。歩く先は島の隅々におよんだが、いつもごく自然に一番目と体が向いたのは島のいたるところにある小神域のような場所だった。それらはたいてい見事な樹木や濃い森の背後にあって、通りかかると男を電磁波のようなもので呼ぶのだった。それには大きく分けて二種類あり、その一つ海岸ちかくのものなどいくつかは岩の割れ間に黒い穴があき水が滴り落ちるいわばカリマタ式のもので、もう一つは樹林の奥の最もひっそりした秘所ともいうべき静寂の場にあるものだった。
 それはわずかに木もれ陽がさすくらいの空間に純白の砂が楕円形にさながら鏡か渚のごとく敷きつめ清めてあり、島人はそこをウブと呼ぶのだった。それはいかにも清浄で美しく、近寄るなりおだやかな霊気が清々と身をつつみ、わずかな空間なのにこころも身も深く安らがせた。ウブとはおそらく「産」のことでもあろうが、男はそれらの場所に行きあうと自然に身をかがめ、白い砂地をそっとちょうど海の無垢の波打ちぎわに触れるがごとく撫でさすった。
 島にはそういう場所が随所にあり、そしてそこからすこし歩けばどこにも目の覚めるばかりの美しい純白の本物の海があった。
 男はこの島は全体がひとつのウブのようなものだとおもった。トミ島はウブ島だった。
 男はこうして日がな島を歩いたが、あるとき美しいひとにも出会った。
 それは島の北のかたにある博物園と呼ばれるフシギな場所においてで、そこは第一の館は島の古文書や絵図系図、主産物や衣類、それに館長家伝来の品や錆びかけた刀などを展示してあり、第二館は一転して諸外国から蒐めた歓喜仏や男根女陰像、夫婦木になった樹木や女陰ふう岩石などを屋内から庭にかけてならべ、そして第三館は鳥禽館となって深紅や璢璃あるいは嘴だけ真っ黄に角ばった緑の鳥や赤や青極彩色の南国の鳥々を飼うという場所だった。
 それはいささかおどろおどろしく俗でもあり、なにゆえここにこんなものがといささか首をかしげさせる、しかし同時に田舎びた小施設ゆえもあってなにやら一種牧歌的な気配も感じさせる妙な所だったが、そこの第三館を出てハイビスカスの花陰に腰をおろし園全体を見まわしているとき、ゆらゆらと近づいてきて、
「こんにちはぁ」
 と笑いかけたのがそのひとだった。
 それは三十代半ばの、大きな目と瞳まっすぐ通った鼻すじに赤い花のような口をもち、豊かな黒髪を腰まで垂らした花柄のワンピース姿の大柄な女性で、難点といえば胸囲も胴まわりも腰まわりもひとしく一メートルはありそうな豊潤ぶりだったが、しかしそれもまるでスペインか南米あたりの酒場の陽気なマダムみたいで悪くはなかった。じっさい彼女は見るからにはでやかで、男はその瞳にみつめられその赤い唇で笑みかけられたとたん、さながら太陽に照りかけられたような暖かなここちがしたものだった。
 その彼女の第一声はこうだった。
「どうここは、だいぶヘンな感じかしら?」
 笑みを含んだそれは彼女がこの場所のしかるべき責任者かそれにちかい存在であり、しかしながらこの場が人に与えるかもしれない印象の性質とそれへの羞じらいも知り、だがにもかかわらず結局はおのれのしていることを恬淡と許容もしているといった様を知らしめた。
 そこで男もこの島の人はどうして皆こうあけすけなのだろうと上機嫌におもいながら答えた。
「いやあ、島の『フシギランド』という感じですねえ。鳥の世界などはまるで極楽みたいです」
 すると彼女はホホホと声を上げて体を揺すり、
「まああ、そういってもらえるとうれしいわねえ。来る人のなかには第二館あたりで眉をひそめる人も多いんだけど、でも世の中にああいうものがあるのも事実よねえ。事実は事実。それに世の中の大本はああよ。生きてればそんなことは分る」
 と歯切れよくいった。男はどうやらこの人はいったん遠くで都会生活を経てきた人らしいとおもいつつ、
「そう、その通り!」
 と相手の朗らかさに合せて笑いながらうなづいてみせた。
 と、彼女はにっこり微笑み、「何か飲む?」と勧めるようにいって近くの喫茶コーナーへ向い大声でレモンソーダを二つ注文した。
 そうして彼女はそれから自分もそこらの木の根株椅子にかけて緑色の飲物を飲みながら、
「あれはみんな父が蒐めたのよ……」
 と話した。なんでも父親が三十年ほど前から蒐めだし、十年前彼女が娘連れでここへ戻ってきたときにはもうほぼ完成していたそうだ。父親はそのころから病身で裏の自宅と敷地内しか往復しないらしい。
「さっきお父さん見た?
 ちょっとだけ向うにいたでしょ」
 彼女は当然のようにいったが、男はしかとした記憶がなかったので首をひねって思い出そうとした。そういえばえらくはかなげな着物姿の老人がひとり横を通ったような気がしたが、はっきりとはしない。
「いいわよ。それよりあたしはここに問題があるとしたら、第一館の刀だとおもうの。あれが本当はここの一番重要物なの」
 彼女はとつぜんそういった。
「刀?」
「そう、あの錆び刀」
 男は彼女の皺ひとつない艶やかな肌と黒いひとみ赤ばらのような唇を見つめながらその刀をおぼろに想い出したが、意味はまったく分らなかった。
 すると彼女がその男の目を見てこういった。
「あれはお母さんが自分の喉をついて死んだ刀なの」
「えっ」
 男が息をのんでいると彼女はさらにいった。
「お父さんはそれを展示しているの、ずっと」
 だいぶたって男が理由を問うとこう答えが返った。
「お母さんはほかの男を好きになったのよ。あたし分るの、自分もおなじことしたから」
 じっとみつめると彼女もじっと真っ正面から男の目を見ていた。その目は光に富み大きく黒く美しかった。男は黙ったまま、この人は太らなかったらどれくらいきれいだったろうとその美しさを想像した。
 彼女はまもなくとつぜん我にかえったように、
「あー、話しちゃった話しちゃった、どうしてなんだろう」
 と首をひねりながら空になったグラスを二つ持って立上がり、最初とおなじように真っ赤な笑みを顔じゅうに広がらせて、
「じゃあね」
 とグラスごと手をふって戻っていった。
 
 男はその翌日、もうひとりの女性にも会った。それは島へ来てたぶん四日めあたりにあたっていたとおもうが、男はもうはっきりした日付を分らなくなっていた。
 女性はおテルさんという名で、島の中ほどで機織りをしている四十代後半のひとだった。古い家から一定のリズムで音がしつづけるのにひかれ男が影になった縁側からのぞいてみると、もんぺ姿の彼女がひとり板の間で機を織っていたのだ。 織機は古い木造で黒く部屋も質素で暗かったが、そのなかで彼女と織機だけが光っていた。織機はいわゆる黒光りの木の色ともいえたがしかしどこかうっすらと黄金☆がかっており、彼女にかんしては丸顔の鄙びた顔から明らかに薄金色の光が出、顔や手など肌が露出した部分のまわりには幅数センチほどの後光のごときものがとりまいていた。
 男は驚いてそれをながめ、そして思わず話しかけたのだが、すると彼女は織機の座り台にかけたまま体をこころもちこちらに向け膝に両掌をていねいに重ねて、「ああ、おいでされたか」
 と何ともいえぬいい笑顔で挨拶を返した。その顔は能の高砂などに出てくる媼や神楽の女面にも似た表情で、じっさいに額に三本ほど皺があり目尻はさがって田舎女の顔そのものなのだが、皮膚がつるつる金色に光ってこうごうしく、しかも同時に神経の鋭敏さと質朴さの奥底の最も透明な本質の露出を感じさせる体のものだった。
 男はそれを見たとたんかつてインドのブダガヤで出会ったひとりのチベット女性を想い出した。それはシャカ解脱の菩提樹のほど近くにある巡礼テント集落で質素なレストランを開いていたひとで、彼女のつくるパンは大きなものからビスケット大の小さなものまでどれもすべてが仏の顔や菩提樹の葉、合唱する掌などの形になっていていかにも心のこもった味わいを感じさせるものばかりだった。おかげで彼女は客の誰からもアマラ(お母さん)と呼ばれていたのだが、しばしば高熱を発し天上界をさまようようなひとでもあった。そのひとの顔が容貌といい光り具合といいそっくりだった。
 が、それと同時に男はまるで自分を知っているがごとき相手の挨拶にも驚いていた。で、
「えっ、ぼくをご存じですか」
 と目をみはっていうと、彼女は笑って、「今日あたり誰かが来るなとおもえていたで」
 とおだやかにいい、しばらく間をおいて、
「博物園にも行きさったでしょ」
 と微笑んだ。
 男がそれでてっきり彼女は誰かからそのことを聞いたのかとおもいそういいかけると彼女は首をふって、
「いんえ、ここらに電波のようなものがありますが」
 と自分のおでこのあたりを指さした。
 そうして、
「あの人とはいとこですが」
 と笑ったあと、
「ご覧なされ」
 と縁側ちかくに出てきて織物と香木らしき木切れをいくつか並べてみせた。彼女が織ったという織物はグレーと茶まじりの地味なものだったが、びっしり小紋のつまった絹地は銀色に光って重さをすら感じさせた。木切れのほうはやはり香木で、伽羅のようなかぐわしい匂いがした。
 男が織物を撫で香木の匂いをかいでいると、彼女がその香木は自分があずかっている神域でとれたものだといった。二年まえ大きな台風のあと参道に一本の木が横倒しになり通せんぼをした、困ったしその木は名も知らなかったがとてもいい香りがした、それがこの木で以来じぶんはこの木と織物を売って暮しが立っている、ひとりでもなんとかなるものだ、というのだ。
 男がその神域を想い浮べウブのことをいうと、彼女は、
「えっ、あそこへ入りさったですか」
 とまじまじと男をみつめ、
「あそこはワタシら以外は入れんですが。男が入るとチンポコが曲がるといいますが」
 と「チンポコ」のくだりでは恥ずかしげに頬を赤らめながらいった。そうして男が困っていると、思い直して救うように、
「まあ、知らずならいいんでしょうね。向うもきっとびっくりして苦笑いなさってるですが」
 と自分もあの神楽面のような笑顔をした。
 それから彼女は年に一回の祭の話をした。それはすべて女ばかりでとりしきり、男は下座のほうで平伏しているのだそうだ。その司祭が彼女だという。彼女の前は叔母がそうで、その前はそのおばあちゃんだったそうだ。
 島は女の島だった。
 男はなるほどそうかとおもい、それがなにかふくよかな良きことのように感じながら彼女の家を辞した。
 
 そうして表の通りを歩いてゆくと、外は光に満ちていた。キラキラした陽光が空間のすべてをおおい、緑の草木がそれを反射し、白い道がかがやいていた。風がそよそよと潮の香をはこび、鮮やかな青と赤の鳥が一匹視界のなかでくるりと扇がたに旋回し消えた。
 その直後だった。男が島の中ほどのあの標高最高地点ちかくの三叉路にさしかかったとき、その交点にとつぜんつむじ風のように光の玉が生じた。それは直径二メートルほどで、煌々と燃えるガラス球のように強い光をはなち轟々と小竜巻のごとくうずまいた。
 驚愕して目を見開いていると、それは次第に玉の表面に黄金の亀甲模様状のものを一面に浮びあがらせ、ついでそれが目鼻立ちのあるなにものかの顔のように変じていき、とおもうと次の瞬間には目をとびださせ牙と角を生やした見たこともない怪異な生物の顔に転じた。
 男はそれを見て目も身もはりさけんばかりだったが、やがて光の玉はふたたび黄金の亀甲模様に戻り、そして元のうずまく玉に還って光をひときわ放射したのち、はじけて四方に光を飛ばした。
 光は白銀色の熱はなさそうな放射状となって三叉路から島のすべてへ散っていった。
(読切連作『恋の呼び出し、恋離れ』終篇)