「長い散歩」という映画を見ました。 2006年モントリオール世界映画祭で3冠を受賞してグランプリに輝いた奥田瑛ニ監督の作品です。
家庭での幸せを築くことのできなかった定年後の老人と、虐待でココロを失った少女が、青い空と白い雲を探しに長い散歩に出るたんたんとしたお話---。
自らが原因で妻を亡くし、娘の非難めいた目にも耐えられなくなった元校長の松太郎は、罪を清算するように自宅を離れ田舎の小さなアパートに引っ越します。しかし彼が越した隣の部屋では女がヒモと暮らし、その子サチは日夜虐待にあっていたのです。いつもアパートの二階の階段から空と雲を見つづけているサチ。虐待が限界に近づいたある日、松太郎はサチと一緒にアパートを出ます。
少し冗長に感じるほど淡々とした映画ですが虐待をテーマにしつつ目を背けたくなるようなシーンはなかったのが安心して見られました。
教育者としての責務を全うしつつ、家庭一つうまく築けなかった老人の哀愁を緒方拳が見事に演じています。その哀愁漂う老人が、サチを助けることで、守れなかった家庭を取り戻すように、強くやさしい男に変わっていきます。
劇中ずっと背中に紙で作った天使の翼を背負っているサチは温かい食べ物を「痛い」と恐れます。それは、煙草やコーヒーで虐待されてきたから。松太郎に触れられることも恐れます。それは母のヒモに触られてきたから。実際には多く出こない虐待の実態を、小さないくつかの行為が容易に想像させてくれます。
天使の翼は、幼稚園の発表会で使ったもの。親子が幸せだった最後の日の記憶。サチはそれを背負う事によって、必死で幸せだった日々を失わないようにしがみついているようにみえるのです。残された最後の希望。一方的な虐待という母からの暴力へのただ一つの反抗。
どんな正当な理由があれ、松太郎の行為は明らかに誘拐です。警察は徐々に二人を追い詰めていきます。
逃亡する二人が出会う帰国子女の少年ワタルとのつかの間の交流と別れ。
自分が愛されたことがないから、サチの愛し方がわからないと刑事に言い切る母親の悲しみ。松太郎が悪ではないとわかりつつ、職務として追うベテラン刑事(この役を奥田瑛ニ自身がやってます)の葛藤。
松太郎が自分の家族への贖罪と、サチ自身を連れて行きたい場所。
物語は盛り上がりながらも、決して予想を裏切ることなく、終局へ向かっていきます。
ベテラン刑事が松太郎との電話のやり取りで「君がやっていることは犯罪だ、巡礼なら一人ですればいい、子供を巻き込むな」というピンポイントな発言に対して松太郎が叫ぶ「この子は地獄を見てきたんだ。警察に何ができる。本当の犯罪者は誰だ!」という台詞は、この映画の真芯だと思われます。地獄という言葉がこれほどしっくりくるところが、ぞっとします。
そして旅の終わり、自分が警察に出頭したらサチはどうなるのだろうと、自分を本気で信じてくれるようになったサチの心までもを案じて右にも左にもいけない松太郎の悲しさ。今の日本では、この後のサチが幸せになる方法が決して見えてこないのです。
映画は刑期を終える松太郎のシーンで終わりを迎えます。
その後サチがどうなったかは一切出てきません。
結局のところ、実際に松太郎の家族の崩壊した具体的な部分も、サチの家庭が崩壊した理由も、少年ワタルとの別れの理由も、その後の彼らの行く末も一切出てきません。そこにリアルさがあるのだと思うのです。観客に想像させることで、いっそう考えを深くさせるのだと思うのです。それぞれの家庭に当てはめて、より深くに落としこんでゆくのです。
映像が美しかったのです。岐阜の古い町並みや昭和の匂いのする建物、廃校など、郷愁を誘う風景が、物語にやさしさと哀愁を加えています。
ただ一点不満だったのは老人問題に対して特に触れていなかったこと、刑事が松太郎に理解を示していた部分もあり、緒方拳の強くなっていくイメージがあり(松太郎は老人から父親というイメージに近づいていったのだと思う)。ただ、現実的にはこの老人松太郎に対して警察は全く理解を示さないだろうし、老人はどこから見ても老人でしかない。
もし、この作品の松太郎に、老人だから理解されない、蔑まれる、といった要素を含ませたら、さらに問題を提起し深みのある作品になったのではないかと勝手に想像してしまうのです。
ひさびさによい映画に出会いました。
長い散歩
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